一般社団法人半導体産業人協会


第二回鎌倉散策の会
―幕府成立以前の鎌倉と鎌倉時代前半の寺社とアジサイを巡る―

2016年6月13日

はじめに

梅雨前線の通過のため、今日は朝から激しい雨の連続である。横須賀線、江ノ電の延着情報や、雨中に駅へ急ぐ通勤・通学客の踏切への人の立ち入りによってさらに混乱が増しているようである。雨のため車で駅へ急ぐ人には渋滞で身動きできぬ混乱もあるようである。

幹事の懇切丁寧な案内状のお蔭で、遠方からのメンバーは早めに集合場所に到着して雑談をしながら、こんな日は時間に関係なくゆっくり待っていた。

―三々五々、集合を待つ―

第二回鎌倉散策の会の案内

日時
6月13日(月) 午前9時30分
集合場所
鎌倉駅西口 江ノ電との連絡口前 JR改札口の手前の左側
ルート
極楽寺駅⇒極楽寺⇒成就院⇒極楽寺切通⇒星月ノ井⇒御霊神社⇒
長谷寺⇒光則寺⇒ 高徳院大仏⇒甘縄神明神宮
トイレ
極楽寺駅、長谷寺、高徳院、に有り
行程
極楽寺駅からウナギ屋まで、2~3km位、長谷寺内の散策は別。
長谷寺のアジサイ見物と成就院が少し上りですがあとは平坦
昼食
2時『うなぎや“つるや”』由比ガ浜通り―ドジョウの柳川鍋でお酒、続いて『鰻重』を賞味

参加者(敬称略)

清水 秀紀、竹下 晋平、高橋 令幸、野澤 滋為、中田 靖夫、堀江 洋之、中澤 修治、井入 正博、島 亨、眞鍋 研司、(橋本浩一、内山雅博、両氏は懇親会のみ参加)、散策10名、懇親会(“鶴屋”)12名

眞鍋幹事が到着して彼の案内で由緒ある江ノ電鎌倉駅をスタートに第二回鎌倉散策の会がはじまる。 小雨煙る中ではあるが真鍋ガイドの詳しい説明に参加者は聞き入りながら歩を進めた。


江ノ電(江ノ島電気鉄道)

1902年、藤沢から片瀬まで3.2kmが開通。全国で6番目の電気鉄道。
2年後には極楽寺まで開通するが、長谷に抜けるトンネル工事が難航し、1907年になって大町まで開通、終点の小町(鎌倉駅東口前)まで全線が開通したのは1910年であった。なお、鎌倉駅が今の西口に移ったのは1949年である。因みに、日本最初は京都電気鉄道で1895年に開業し、1918年廃業。江ノ電は今では全国で3番目に古い電気鉄道。

―極楽寺駅―

極楽寺駅

山あいの小さな駅で、江ノ電沿線の駅の中では異色。  
駅舎は江ノ電駅の中で最も古い木造建築。「緑と静寂のなか、古風な雰囲気で風情とやすらぎを感じさせる駅」という理由で、第二回「関東の駅百選」に選ばれている。鎌倉では、他に、江ノ電・鎌倉高校前、 JR北鎌倉駅、第四回JR鎌倉駅も選ばれている。

―極楽寺の前で―

極楽寺

霊鷲山感応院極楽寺 真言律宗 開山=忍性 開基=北条重時(第二代執権北条義時の三男)

1257年頃、老僧が深沢に草堂を建て阿弥陀如来像を安置し極楽寺と称したのがはじまり。
1259年、重時が現在の地に再建。1267年、重時の子・第六代執権長時が当時多宝寺に入山していた忍性を招き開山した。最盛期の寺域は広大で、七堂伽藍をかこんで塔頭が49院あった。忍性は、ここに施薬院、悲田院、施薬院、福田院などを設け、不幸な人々を救済する福祉事業に取り組み『医王如来』と崇められた。1303年87歳で入滅。後醍醐天皇より菩薩号を追贈され忍性菩薩となった。
奥の忍性菩薩廟に高さ4メートルの石造五輪塔があり、重要文化財。4月8日のみ公開。

本尊=木造清涼寺式釈迦如来立像 他に、転法輪印を結ぶ釈迦如来坐像、十大弟子立像などは鎌倉時代の作で国の重要文化財。他に密教法具類も国重文で、それらが納められている転法輪殿は、4月7―9日に公開される。4月8日はお釈迦様の生誕日で甘酒が振舞われる。その他、忍性が粥を施したとする「極楽寺の井」、薬を調合した大きな石製の「製薬鉢」などがある。また、境内にはめずらしい「八重一重咲分桜」があり、第八代執権北条時宗のお手植えという。

鎌倉七口

鎌倉への出入り口はすべて峠越えとなり「鎌倉七口」を呼ばれ整備された。「鎌倉七切通」ともいわれ、逗子側から、「名越切通」・「朝夷奈切通」・「巨福呂坂」・「亀ヶ谷坂」・「仮粧坂」・「大佛切通」・「極楽寺切通」である。“谷”は鎌倉では“ヤツ”と読む。

―極楽寺切通―

極楽寺切通

極楽寺から坂ノ下、由比ヶ浜に抜ける道で1200年代後半に開通したようである。 1252年、五代執権北条時頼が後嵯峨上皇の皇子・宗尊親王を将軍として招いた時、稲村ガ崎を回って鎌倉に入ったという記述があるのでこの時は開通していなかった。その後、忍性が1261年鎌倉に下り極楽寺を開いたが、彼が極楽寺切通を開いたといわれる。新田義貞の鎌倉攻めの折、極楽寺切通突破を目指したが果たせず、海側の稲村ガ崎を回って鎌倉に入った。

―成就院―

成就院

普明山法立寺成就院 真言宗大覚寺派 開山=弘法大師 開基=北条泰時(伝)

1219年三代執権・北条泰時が創建し、北条一族の繁栄を祈ったとされる。1333年、新田義貞の鎌倉攻めで焼失、江戸時代に再建。弘法大師像や奈良・法隆寺の夢殿を思わせる八角堂がある。

本尊=不動明王 他に、鎌倉三十三観音二十一番とされる聖観音菩薩。
文覚上人荒行像と伝えられる木像は「日本のロダン」と称される彫刻家・荻原守衛に大きな影響を与えた。アジサイがうつくしいことでも知られるが昨年から参道の修復事業が始まり、残念ながらすべて抜かれてしまっている。今年12月18日完成予定。
一方、修復後の植樹のためにアジサイの苗が院内に沢山栽培されていたが寺とボランティアの努力の現われだろう。

―虚空蔵堂と星月ノ井―

参道入り口を下りて極楽寺切通を越えたところに鎌倉十井の一つ「星月ノ井」があり、階段を上ったところに虚空蔵堂が建つ。弘法大師が諸国巡礼の折、ここで100日間にわたる虚空蔵菩薩を祀る修法を行ったとされる。成就院の飛地境内にあるお堂で本尊は虚苦蔵菩薩。正式には明鏡山星井寺という。鎌倉時代の極楽寺切通は成就院の山門の辺りの高さであった。

―御霊神社―

御霊神社

祭神――鎌倉権五郎景正 平安末期の創建。俗称は「権五郎神社」

景正は平安時代後期の平氏一門の武士。鎌倉武士団を率いて湘南地域一帯を開拓した開発領主である。1083年、源義家が奥州の清原氏の内紛に介入した際、鎌倉権五郎景正も参戦し活躍。(後三年の合戦)。

<言い伝え> 
この戦で、敵に右目を射られながらも敵を倒した。三浦爲嗣が景正の顔に足をかけて矢を抜こうとすると、その無礼を怒ってひざまずいて抜かせたが、その間、景正は声もあげなかった。  
社号は「五霊神社」で、元は関東平氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)五氏の祖霊を祀っていたが、 鎌倉権五郎景正の武勇が高く、景正の一柱だけを祭る様になり権五郎様と俗称され、五霊から御霊にあらためられた。毎年9月18日(景正の命日)には、境内で鎌倉神楽とも呼ばれる湯立神楽を奉納した後、奈良時代から伝わる伎楽や舞楽、田楽などの古い面をつけた十人の面掛衆が練り歩き、豊作・豊漁を祈願する珍しい祭事で神奈川県無形文化財となっている。鶴岡八幡宮の放生会の面掛行列を引き継ぐ形で江戸時代中頃から行われているという。爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男・福禄寿・阿亀・女の順

―長谷寺のアジサイ―

長谷寺

海光山慈照院長谷寺 浄土宗(単立) 
開山=徳道上人 開基=藤原房前

伝承では天平八年(734年)の創建といわれ、本尊の十一面観世音菩薩は奈良の長谷寺の本尊と同じ一本のクスノキの霊木から彫られたという縁起を持つ。奈良・長谷寺も徳道上人が造立した。右手に錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式と呼ばれ、徳道が二体彫らせて、一体は奈良・初瀬の長谷寺に、もう一体は行基が衆生済度を祈願して海中に投じた。その像が736年に横須賀市長井に浮かび上がり鎌倉に運ばれ、その像を本尊として長谷寺が創立されたという。奈良・長谷寺の像は1018.0cmでわが国で最も大きな木造の仏様で、鎌倉・長谷寺の像は、919cmで少し小さいとはいえ立派な体格の仏様。

―長谷寺山門前にて―

観音堂、阿弥陀堂、大黒堂、経蔵、鐘楼などの堂宇が建ち、見晴台からは鎌倉の町と海が一望できる。 材木座の端にある和賀江嶋は、日本に現存する最古の築港遺跡であるが、鎌倉時代、港の管理を極楽寺が任され関料を徴収していた。宝物館所蔵の十一面懸仏、銅造梵鐘は国指定重要文化財。
境内に、久米正雄の胸像、高浜虚子の句碑、高山樗牛の住居跡など。大黒堂の大黒様は鎌倉七福神の一つ。 眺望散策路の周辺には、40種類以上、約2500株のアジサイが植えられていて、梅雨の季節には「アジサイの径」として賑わう。また、12月初めには、ライトアップされ夜も拝観でき違った雰囲気になる。

光則寺

行時山光則寺 日蓮宗 開山=日朗上人 開基=宿屋光則

日蓮は、1260年光則の父、行時を通じ「立正安国論」を第5代執権北条時頼に建白した。これにより様々な迫害を受けた日蓮が、1271年に佐渡に流罪になる折、光則は、同時に捉えられた弟子の日朗を自宅で監視する任に付いた。弟子の身を案じる日蓮に心打たれた光則は後に帰依して自宅を寺にした。
裏山に日朗を幽閉した土牢が残り、傍らには佐渡流罪前後、日蓮が日朗に送った手紙「土牢御書」の石碑がある。本堂前にある樹齢200年といわれるカイドウの古木は市の天然記念物。他にも四季折々花が咲き乱れ鎌倉有数の花の寺。光則寺制作の花マップがある。 現在の本堂は1650年に建てられたもの。

高徳院

浄土宗 正式には、大異山高徳院清浄泉寺

鎌倉大仏(阿弥陀如来像・国宝)で知られる高徳院は開基、開山とも不明。奈良の大仏が勅命により造られたのに対し、鎌倉大仏は民衆の浄財を集めて完成に至ったといわれる。(勧進僧:浄光房良信導師?)1237年に着工し1243年に完成した大仏は木造。1247年台風で倒壊し、1252年に現在の青銅像が鋳造され大仏殿に安置された。1495年の明応の津波で大仏殿が流され以来、露座の大仏となった。(1497年という説もある)総高約十三メートル、総重量百二十二トン。宋の影響を受け背中をやや丸めた像である。境内奥に、与謝野晶子の句碑、「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」がある。釈迦ではなく阿弥陀さまである。
その奥に、韓国から移築された「観月堂」(韓国では月光殿)がある。日本の併合時代に持ち去られたとされ、返還の申し入れがあったが受け取り先が無く立ち消えとなっている。

―大仏―

―観月堂―

甘縄神明神社

長谷の鎮守 祭神=天照大神 「伊勢皇大神宮別宮」の碑が入り口にある。

710年、行基が草創し、豪族染谷時忠(由比の長者)が建立した鎌倉で一番古い神社とされる。
源頼義が相模守として下向した折、当社に祈願して八幡太郎義家を授かったことから、源氏との縁が深い神社として信仰された。1081年、源義家が社殿を再興した。源頼朝、北条政子や実朝も参詣したといわれ、八代将軍「北条時宗産湯の井」とされ井戸がある。入り口の左側には川端康成の屋敷がある。

―甘縄神明神社―

―時宗産湯の井―

―甘縄神明神宮―


――昼食を兼ねた懇親会――

『鶴屋』 ウナギ屋

昭和4年創業とのこと。川端康成や田中絹代など鎌倉在住の文豪らが贔屓にした店でミシュランにも載っている。ご主人は取っ付きが悪いが鰻重はおいしいと評判のお店。

2時から開始。メニューは「鰻重」がメインであり他はほとんどない。唯一あるのがなぜか泥鰌の柳川鍋。 それとウナギの骨のから揚げと肝吸いでお酒とビールで30分、そこから本命の「鰻重」が出てきた。 参加者の評価は極めて良好で、話も大いに弾み約2時間があっという間に過ぎてお開きに。

―『鶴屋』にて―

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